ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その31)」「仕事と結婚」

今回は、若者にとっての仕事観や結婚観の話です。
「最近の若者は、夢や目標を持っていない。」よく耳にしますが、本当でしょうか。今の若者全てにインタビュウしたわけではないので推測の域は出ませんが、恐らく彼らも子供のころ、野球選手や宇宙飛行士、アイドル歌手になる夢や憧れは持っていたのではないでしょうか。ただ、現実的な彼らは、諦めるのも早い。
自分の(職業としての)やりたい事が見つからない、というのは、本当に若者の「問題点」なのでしょうか。私の拙い民俗学の知識で考察するに、日本民族が職業選択の自由を手に入れたのは、戦後のことで、特に自己の適性を分析し、アピールして就職活動するというのは、ここ数十年のことだと思います。夢を持ちそれを職業として実現するなど、元々日本民族の遺伝子に無い、不慣れな作業なのではないでしょうか。
夢や目標をもって生きることは、有るべき姿だと思います。ただ、情報や知識、経験も乏しい若者が、無理して目標を設定し固執するのは、かえって自己の適性を狭く見積る行為ではないでしょうか。人間の適応能力は大きい。可能性も想像以上に広い。まずは、近くにあるもの、人から奨められるもので手を打ってみては如何でしょう。大学での専攻にもこだわらず、具体的に言えば、家業があれば家業を、人手不足の中小企業が近くにあれば、そこも候補にしてみるといった具合です。続けていれば、与えられた目標がやがて自分の目標になる時が来るでしょう。そして、世の中が見えるようになってから、仕事以外の例えば家庭や趣味、社会貢献などに夢や目標を見出しても悪くはないと思います。
またよく似た現象に、若者の結婚難があると思います。「近頃の若者は、自力で結婚相手すら見つけられないのか。結婚に興味すら無いと言うではないか。嘆かわしい。」という言葉を耳にします。しかしどうでしょう。これまた日本民族に、結婚相手を自力で見つけ、決めるなどと言う風習は有ったのでしょうか。貴兄は、あるいは恋愛結婚だったかもしれません。ですがごく近年まで多くの若者は、お見合いと言う互助システムで救われてきたはずですし、「婚活」はむしろ周囲の人間が行う活動だったはずです。江戸時代までは、村々に若衆(若者組、若連中)といわれる未婚男性の共同体が存在し、先輩の指導の下、ヨバイ(呼ばひ、夜這い)をしたといいます。これも互助システムです。
今日、男性の2割、女性の約1割が生涯未婚で過ごすと言われています。一つの原因は、不景気や低収入の影響でしょう。また、マスコミは、独り身は近年の新しい人生選択だ、と報じています。が、彼らは積極的に「選択」したのでしょうか。若者が結婚に無頓着なのは昔も今も同じだと思います。今の若者は、可愛そうです。お見合いはダサい行為とされ、それでなくても、忙しくて疲れきっているのに、誰も手を貸さない。その結果が、この数字だと私は思います。
そして自戒もこめて、最近一番変わってしまったのは、若者ではなくむしろ、団塊の世代以降のシニアではないでしょうか。「若者の自主性を重んじる」という美名を隠れ蓑に、彼らに無頓着になったと思います。若者のために一肌脱がなければ。

ステンドグラス「祝福」

ステンドグラス「祝福」

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その30)」「十年」

よく職人さんが取材のインタビューなどに答えて「この技を身に付けるのに、まず十年は掛かりますね」と言っているのを耳にします。ひとつの技を修得するのに十年は掛かる。見た目は簡単そうだけれど、実はすごく難しいんだぞ。俺は鍛錬と辛抱で身に着けたんだ、と言いたいのでしょうが、しかし、私はこの十年と言うフレーズが嫌いです。

先達てもテレビの中継で、人形職人が雛人形の顔に面相筆で眉を描きながら、「まず十年はかかりますね」とヤルもんだから、思わず「あんた相当ヒマだね。さもなくばかなりの不器用、あるいは師匠が意地悪だ。俺なら1ヶ月で十分。そもそも、恥ずかしげも無く言うことか。」とテレビ画面に向かって突っ込んでしまいました。

ある技能をそこそこ身につけるのに、数箇月あれば十分だと、私は思っています。これには根拠があります。勤め人さんなら思い当たると思いますが、頻繁に配置転換が行われます。異動や転勤、業務の転換。技術者なら扱う製品も周辺技術も日進月歩。でも、転換していつまでも「不慣れです」「お手柔らかに」などと言っていられない世界です。

私もかつて、10年程のサラリーマン生活の中で、5つの開発プロジェクトに携わりました。一番の変化は、ビデオデッキから、畑違いのDVD用光センサの開発チームに異動したときです。レーザーや光学、新素材、指先ほどのモータ、そして最新の製造技術を大急ぎで詰め込み、異動後3ヵ月で「はい5年前からやってます」くらいの顔つきで、製品設計を主担当として始めました。これは自慢でもなんでもなくて、ビジネス界で言う垂直立ち上げ+OJT(オン・ジョブ・トレーニング)です。

これは、頭脳労働だけでなく、体で覚える仕事にも当てはまると思います。要は、多くの職人さん、特に修業中の人に、時間的切迫感が感じられないと言っているのです。もし、3ヶ月後に人形の眉を描いて独り立しなさい、という業務命令が与えられたら...習得の方法を工夫するでしょう。必死に教えを請う。師匠の動作をビデオ録画して家でおさらいする。お金も必要かもしれない。「技とは教わらずに盗むものだ」などと悠長なことは言っていられないはずです。

これも自慢では有りませんが、私のステンドグラス修業期間は1年間でした。昼間はサラリーマンをしながらでしたので、1年も費やしてしまいました。これでスタンダードな作品は作れるようになりましたので、ハイサヨナラ、脱サラです。

知人で元富士銀行の支店長経験者Tさんは、早期退職して、広島風お好み焼きの店を始めました。出店前、広島の名店Mに頼み込んで、1ヶ月ほどの短期修業に行きました。後日、「ここでは、若い連中が2年も3年も修業しているわけヨ。俺に言わせりゃバカじゃないのだよ。言っちゃ悪いがお好み焼きだよ。1週間も練習すれば外はカリッ中はフンワリできるって。」と話してくれました。痛快です。

多くの職人さんが伝統の技の習得に疲れきって、またこの伝統にあぐらをかいて、次のステップのためにこれを自らぶち壊すことができずにいます。今は職人天国だった江戸時代ではなく、5年一昔と言われる激変の世です。一つ技能を身につければ一生食べて行けるほど甘くはありません。私を含め職人が時間を掛けるべきは、新たなる技法や、オリジナルデザインの創出ではないでしょうか。これを怠るから世間から見捨てられてしまう。そして、技能の衰退・絶滅です。もったいないです。

ステンドグラス「REVUE」

ステンドグラス「REVUE」
ステンドグラスを始めて、半年ぐらいの作品です。今でもこれのレプリカのご注文が来ます。

ブログのランキングに参加しています。ぜひワン・クリックお願いします(励みになりますので)。
にほんブログ村 美術ブログ ガラス工芸へにほんブログ村

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その29)」「話し言葉」

言葉が変化する時、最初はこれを「乱れ」と呼び、時が経ち大多数に浸透すると「進化」になるという話を聞いたことがあります。「白夜」を「びゃくや」と今は読んでいますが、これは森繁久彌さんが作詞作曲した「知床旅情」からであって、それ以前は「はくや」と読んでいたそうです。

最近、歳を取ったせいか、話し言葉の端々が気になります。いくつか例を挙げてみます。いくつ共感していただけるでしょうか。

【その1】 「こちらはこの夏限定、巨峰のジュレにナリマス」「洋酒たっぷり樫木のロールケーキでしたら、こちらにナリマス」「代金は、2,600円にナリマス」「お釣りにナリマス。レシートにナリマス。」

(こうナルナル言われると、ナル前は何だったんだ、と突っ込みたくなります)

【その2】 「担当のホウは、あいにく出張中でして」「はい。新品への交換のホウは、一両日中に」「私のホウで、責任持って、対処のホウさせて頂きます。」

(ホーぅ)

【その3】 私「子供用の前掛け置いてますか?」、店員「ワー、あると思います。こちらです」、私「布製ではなくて、ビニールの…」、店員「ワー、こちらですね」、私「ポケットが付いていて食べこぼしが入るタイプは?」、店員「ワー、ちょっと置いてないですね。」

(手抜き感を覚えるなあ。せめて「ソレはー」にしてもらいたいです)

【その4】 「良く叩いてアゲテください」「軽く塩コショウしてアゲテください」「パン粉は少なめに付けてアゲテください」「低めの温度でじっくり揚げてアゲテください。」

(ヒレ肉を、深く愛しているんですかね)

【その5】 「そうですね休みの日は、美術館巡りダッタリ、料理教室ダッタリ、ベリーダンスダッタリ、外に出る事ダッタリが、多いダッタリ、ですダッタリ。」

(以前は○○トカ、でしたよね)

【その6】 「うちの未央ちゃん、担任の先生にも結構頼られるジャナイデスカ」「ほら、上の未紀ちゃんも、毎年学級委員を押し付けられるジャナイデスカ」「私も、世話役とか断れない方ジャナイデスカ。」

(知りませんよ)

【その7】 A「暑いっすね、缶コーヒーでもどうです」、B「ギャクに生ビールなんてどおよ」、A「でも、アルコールにはちょっと早くないっすか。俺ってそういうところ堅いヒトなんですよね」、B「そうか、折角の自由が丘だし、じゃあギャクにスィーツにすっか」、A「ギャクにもう直帰しちゃいません」、B「ギャクにネ!それいいね。」

(ギャクギャク煩いよ。缶コーヒーのギャクは缶汁粉だろ。それから、あんた「ヒト」だったんだ。そんでもって、スィーツとはなんだ、日本人なら菓子と言え菓子と…)

オヤジのボヤキになってきたので、この辺でやめておきます。

フュージング画「枝垂れ桜」

フュージング画「枝垂れ桜」

ブログのランキングに参加しています。ぜひワン・クリックお願いします(励みになりますので)。
にほんブログ村 美術ブログ ガラス工芸へにほんブログ村

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その28)」「マイコン」

平成23年10月5日、マッキントッシュやiフォンで有名な、アップル社の共同創業者スティーブ・ジョブズ氏が亡くなりました。ショックでした。永遠の憧れの人だったからです。
私は、昭和55年高校1年の時、世に出始めたマイコンというやつを極めてやろうと決意しました。その動機は少々不純ですが、H君という小学校からの友人に対抗するためでした。彼はステレオアンプなどの設計や自作に長けていて、私にも指南してくれていたのです。今、このような趣味はオタクと揶揄されますが、当時電子工作は老若問わず比較的ポピュラーな趣味でした。
いつもH君に教わってばかりじゃ面白くないと思い、彼の専門とは違うマイコンに目を付けました。つまり、彼はアナログ、私はデジタルと言うわけです。

高2のはじめ、電子雑誌の「アップルⅡのプリント基板売ります」という広告に目が留まりました。ジョブズ氏が実家のガレージでアップル社を立ち上げて2年、最初のヒット商品「アップルⅡ」が日本に上陸し始めた頃です。当時38万円したアップルⅡは、現在のパソコンの原型とも言えます。記憶装置は、音楽用カセットテープでした。プログラムは、ベーシックというプログラミング言語を使って使用者自身が目的に合わせて作ります。ですから、誰も彼もが使いこなせる代物ではありませんでしたし、大多数の人にとって不要なものでした。
憧れのアップルⅡの、言うなれば海賊基板。このインチキ臭い代物と回路図を、4万円の大枚をはたいて手に入れました。基板とは、B4版ほどの緑色した樹脂の板で、銅の配線がなされています。この基板に、さらに自分でICやコンデンサなどの部品を買い集めて、半田付けしなければなりません。キーボードや電源回路、ケースも自作です。高校ではハンドボール部の練習が毎日あったのでバイトもできず、家の掃除をして1日500円ずつ親からもらいました。その金を持って、週末、秋葉原のジャンク屋通いです。キーボードは、ジャンクの電卓3台を分解して作り、ケースは勉強机の引き出しを外してきて作りました。
そして数ヵ月、総費用10万円でついに自作アップルが完成しました。粗大ゴミで拾ってきたテレビに繋ぎ「APPLE Ⅱ」の文字が表示されたときには、感動して「やったー!」と叫びました。市販のアップルと全く同じ動作をするこの自作機を計3台作り、友人にも売りました。マイコンクラブの部長をやっていた大学生の時は、学園祭で、複数のマイコンを繋ぐネットワーキングの公開実験に、このマシンも使いました。
ジョブズ氏にとって私は、歓迎されない存在だったかもしれませんが、私は彼を敬愛し感謝しています。パソコンを世に出してくれたこと。そして自分の独創性を世に問うという生き方を教えてくれたことを。
ちなみにH君は現在、警視庁でIT犯罪捜査の最前線にいます。パソコン知識でも私を追い抜き、はるか彼方を行っていて、悔しい限りです。

自作APPLEⅡ

高校生の時の自作パソコン。自分でPINEAPPLEⅡと名付けて、ロゴマークも自作しました。キーボードは、ベニヤ板に穴を開け、そこにジャンクスイッチを埋め込んで作りました。ケースは、勉強机の引き出し部分の流用です。

姫林檎とドウダンツツジ

ステンドグラス「姫林檎とドウダンツツジ」。リンゴつながりということで

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その27)」「作文」

小、中学生の頃、作文は大の苦手でした。読書も退屈。漢字も覚えられないし、書く字もまずい。国語が最も嫌いな教科でした。高校の頃から少しずつ読書をするようになり、今日、本が面白いと思えるようになりましたが、少年期に訓練がなされていないせいで、かなりの遅読です。
同様に子供の頃、作文は原稿用紙一枚書くのも大変な思いで、読書感想文ともなると悲惨なものでした。短編集の中で一番短い一話を読んで、ちょこっと粗筋を書き、最後に「おもしろかったです。」で終わりです。大学のレポートは、先輩の残した過去の作品の丸写し。
しかし、転機はやってくるものです。大学4年の卒業論文の時に、研究室の教授に文章の書き方を一から仕込まれました。名を藤堂教授といい、専門は自動制御で、当時機会学会誌の編集委員もやっておられました。ですので、文章に対するチェックは人一倍厳しかったです。学生の書く卒論とはいえ、概ね学会論文のルールに従います。学会論文は、文章作成のルールが厳格で、一文、一語といえども曖昧な表現は許されず、使用できる漢字なども品詞ごとに決まっていました。基本的には常用漢字以外は使えず、「すぐれた=勝れた、優れた」などのように複数の漢字を当てられる語はひらがな表記です。また、原則、副詞と接続詞はひらがな。「~と思われる」などのような主語が曖昧な受動表現は責任回避型文体としてはねられました。
教授はちょっとした提出物にもよく目を通し「うーん、この表現冗長。ここもここも冗長。簡潔かつ明確にお願いしますよ。」と、朱を入れてくれました。行間の美学など有り得ない論文の世界は、決して美文とは言えませんが、絶対に誤解を与えない、矛盾の無い、そして簡潔な文章を作る訓練を積んだことは、書くことへの自信に繋がりました。
またこれは功罪両面あるとは思いますが、論文は、当時普及し始めた「一太郎」というワープロで作成しました。漢字と手書き文字にコンプレックスの有った私でも、素早く美しい書類を作成することができました。ワープロは、書くことへのハードルをぐっと下げてくれました。
ちなみにワープロの「罪」と言えば、今日に至るまでずっとワープロに頼る人生ですので、手書き文章は全くと言って良いほど書けません。お中元のお礼状でさえ、一度ワープロで下書きします。ワープロでは、先に思いついた「転・結」から書き始めて、後から「起・承」を書くことも出来ますし、文章の書き換えや、入れ換え、他の文からのコピーも自由自在なので、打ち込みながら考えをまとめる事ができます。
藤堂教授は、こういっては失礼ですが、変わり者で面白みの無い人でした。ですが、どんな瑣末と思えることでも教えることに厳しさと情熱がありました。藤堂教授に出会っていなければ、この「ギヤマン草子」も書いていなかったかもしれません。とても感謝しています。

「転機」は風に似ていると思います。突然の風に頬を叩かれたら、顔をそむけず、その風に乗ってみるのも一興。

ステンドグラス「風」。「転機」は風に似ていると思います。突然の風に頬を叩かれたら、顔をそむけず、その風に乗ってみるのも一興。 

ブログのランキングに参加しています。ぜひワン・クリックお願いします(励みになりますので)。
にほんブログ村 美術ブログ ガラス工芸へにほんブログ村

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その26)」「知足」

お金に不自由したという記憶があまりありません。ガラス工芸家と言う、およそ儲かりそうも無い職業ですから、いつもある分だけで足らしています。お金に不自由しない、と言うより、お金というものから自由でありたい、と言う意識は昔からありました。もっと言うと、全てのモノ・コトへの執着から自由になりたいです。理想は、自給自足と物々交換の生活です。
節約するのも好きです。現在、月の水道・電気・ガス代の合計は一万五千円以下、家庭菜園で野菜を作り、子供用品はお古、米、果物は買わずに貰うなど、質素に生活して月の収入十万円余でやっています。
私の節約のポイントは、まず徹底的にモノを捨てることでしょうか。棚にあって2年触れなかったものは基本的に捨てます。「使えない」モノではなく「使わない」モノを捨てます。棚や倉庫はモノが無くてガランとしているのが理想。そうすると不思議とモノを買わなくなり、お金が残り、エネルギー消費も減っていきますね。
この節約生活を維持するのに最も重要なものは、家族の協力でしょうか。妻は美術学生として4年間のフランス留学経験が有ります。ホームステイ先でこの節約精神を私以上に叩き込まれてきました。トイレの水は数回用をたした後まとめて流す。食器は2つのたらいの湯をくぐらせて洗う。頭上の照明しか点けない。モノが壊れたら蚤の市で部品を買ってきて直す。一週間同じ服を着る。アパートメントに浴槽が無いのは当たり前。これらは、中流家庭、パリのような都会でも普通のことです。それでもパリジェンヌが素敵に見えるのは、生き様が堂々としているからだそうです。
ところで、我が家では「知足」の書を額に入れて掲げています。家訓とも言えます。これは老子の一節で「知足者富」から来ています。「足るを知る者は富む」と読み、現状に不平不満を言わず感謝すれば、今、幸せになれるという教えです。
私達の生活は、エアコンもなく旅行や外食などもほとんど出来ません。不満や欲求を言い出せば限が有りません。ですが、私達にとってエアコンを捨ててでも維持したいものがあります。それは美術工芸を好きな時に好きなだけ出来る自営業の環境であり、持ち寄りで催すワインパーティーであり、自家製パンであり、大量の野菜を食卓にもたらす家庭菜園であり、家族全員揃っての三度の食事です。これ以上の贅沢はありません。将来を考えると、今の収入のままでは不安はありますが、「知足」の精神と創意工夫で、今のこの生活は結構面白いです。

フュージング画:老子より「知足」と「為腹」

フュージング画:老子より「知足」と「為腹」

「知足者富」:「足るを知る者は富む」となります。不平不満を言わず、現状に満足し感謝できる者は、すでに富を手にしている、とでも解釈できます。平凡な日常の断片と、花は質素で美しい花大根とオクラを描きました。半裸は最小限の所有の象徴です。

「為腹不為目」:「腹の為にして目の為にせず」となります。人々に腹を満たすだけの素朴で無欲な生活をさせ、感覚的な快楽を追求させないという、聖人の政治の有り方を著した部分です。目=快楽を追い求めるのではなく、質素な生活が理想と言うことです。

ブログのランキングに参加しています。ぜひワン・クリックお願いします(励みになりますので)。
にほんブログ村 美術ブログ ガラス工芸へにほんブログ村

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その25)」「家庭菜園」

近くの農地を50坪ほど借りて、家庭菜園を始めて、6年になります。「達風農園」と名付け、年間4~50種類くらいの野菜を作っています。1日おきに、約2時間の畑仕事。最初は、運動不足解消と食費節減のために始めたのですが、今や季節や自然を感じ、生活のリズムを整える大切な「生活習慣」になっています。ただ、運動として見た場合、一長一短です。種蒔きや間引きのとき、長時間屈むので、よく腰を痛めます。こういうところが、まだまだ素人だと思います。

借りた土地はいわゆる耕作放棄地で、鍬を入れるまでは雑草に覆われていました。ここ龍ヶ崎にはそのような土地がたくさんあり、いくらでも貸してくれます。草を抜き簡単に手入れをして、いざ耕作しはじめると、とても良い土地だとわかりました。場所は旧水戸街道の若柴宿近くで、恐らく江戸時代の昔から畑地だったものと思われます。

私は、中学生になる時、山を切り開いて造成された横浜奥地の分譲地に、一家で一軒家を建てて移り住みました。その時も、近くの空き地を家庭菜園として借りていましたが、粘土質で土質改良にはとても手間が掛かったことを覚えています。それに比べて、今回の土地は、最初から、さらさらふかふかで、恵まれています。

土作りといえば、市内の野口牧場で、安い牛糞を大量に買ってきて、これに石灰窒素と、妻の実家からもらってきた糠と籾殻を混ぜ込んで、特性堆肥を作っています。畑の脇の穴で熟成させて使うと、野菜が飛び切り旨くなるのです。こういう野菜を、近所にお裾分けして喜ばれるのも格別です。

達風農園は、虫の害を受けやすいのが玉に瑕です。周囲が雑木林で、そこからいくらでも虫が供給されます。折角の家庭菜園、完全無農薬にしたいので、葉モノ野菜はすべて防虫ネットで覆って栽培しています。うちの野菜は高くついているかもしれません。

旬の露地野菜である自家製野菜を食べ続けて、徐々に食習慣が変わってきました。それは、野菜をほとんど買わなくなったことです。食費節減の為に始めたのだから当たり前なのですが、それとは別に心情の変化もあります。スーパーに並んでいる季節外れの野菜を、食べたいとは思わなくなりました。冬のトマト、春のカボチャなど、なにか不自然な食物のような気がして。ウチでは、冬場のカレーライスには、コマツナやブロッコリーの脇芽、ホウレンソウに、保存の効く薩摩芋が具として入っています。ただ、冬の露地野菜は飽きるんですよね。アブラナ科が多くて。

アオイ科のオクラの花は、畑の女王

アオイ科のオクラの花は、畑の女王

畑のオクラを写生して制作したフュージング画『菜園』

畑のオクラを写生して制作したフュージング画『菜園』

ブログのランキングに参加しています。ぜひワン・クリックお願いします(励みになりますので)。
にほんブログ村 美術ブログ ガラス工芸へにほんブログ村

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その24)」 「フュージング画」

職業を尋ねられれば「ステンドグラス制作業」と答える私ですが、今作っている作品の大半はステンドグラスではありません。「フュージング画」と名付けた、独自の技法で描く、ガラス絵の一種です。

新しい技法を始めることになったきっかけは、平成19年の冬でした。『全く新しい方法、見地を確立しなさい。このままでは現状のままですよ。』との、あるアドバイスが始まりでした。ただ前前から、死ぬまでに独自の工芸技法を編み出したいものだとは、密かに思っていました。死んだ後も他人に受け継がれ、語り継がれるナニカを残すことは、永遠の命を得ることと同じです。これは、もの作りをする私にとって、最大の夢でもあります。まさにアドバイスに、背中を押して頂いた格好になりました。

その後すぐにフランスに行く機会があり、そこでヒントをもらいました。レンヌという場所の先進的なステンドグラス工房を見学した折り、一畳ほどもあるガラスを融かすための特異な形の電気窯と出会いました。帰国後、早速その窯を一回り小さいサイズで自作し、以前からやりたかったフュージングから始めました。フュージングとは「融合」という意味で、色々な色のガラスを高温で融合して、皿やオブジェを作るガラス工芸の一種です。この技法自体は目新しいものではありませんが、私はそこに墨画のエッセンスを取り入れることを思いつきました。

墨画の醍醐味のひとつに、即興性と偶発性があると思います。図面どおりに制作を進めるステンドグラスには無い要素です。グリザイユという金属の粉で出来た顔料を水で溶き、和紙に見立てたガラス板の上に、和筆で伸び伸びと絵を描きます。これを窯で焼き着け、さらに色ガラスの薄板や、ガラスパウダーを絵に合わせて盛り、繰り返し高温で焼き着けます。時々、筆で描きこみ、また焼く。私はこの技法を「フュージング画」と名付けました。

フュージング画は、最近、ようやく形に成り出しました。しかし現在のレベルは、墨画とガラスが単に出遭っただけで、例えて言うなら、1プラス1が2になっただけです。新しいナニカを生み出すとは、1プラス1が、3や5や10にならなければなりません。作り手のインスピレーション(霊性)が加わり、化学反応を起こさせなければならない、ということだと思います。
『全霊をもって臨め。正に作品は己の分霊(わけみたま)だ。』というアドバイスも頂いています。魂を込めた作品への挑戦は始まったばかりです。

フュージング画「柳と鹿」

フュージング画「柳と鹿」

フュージング画「三峯寒行」

フュージング画「三峯寒行」

ブログのランキングに参加しています。ぜひワン・クリックお願いします(励みになりますので)。
にほんブログ村 美術ブログ ガラス工芸へにほんブログ村

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その23)」 「器用貧乏」

『器用貧乏』を国語辞典で調べると、【器用なので、一つのことに集中出来ず、かえって、大成できないこと(人)】とあります。私は自分を、典型的な器用貧乏だと思っています。

幼い頃から色々なことにすぐ興味を持ち、即始めるのですが、すこし出来るようになると、(ああ、このまま続けていけば、いずれ完全にモノにできるな)と思いはじめるのです。一つ事を会得するのに、中間地点の壁を突破するのが難しいことは知っています。だからか、持続する根気はありません。また自分で言うのもなんですが器用な方なので、ある程度形になるまでが結構速いのです。これも災いしています。飽きるのも速く、他の事に興味が移ってしまうのです。

半生を振り返り例を挙げてみると、油絵、アクリル画、書画、卓球、スキー、園芸、飼育、ステレオ作り、パソコン、機械いじり、木工、バイオリン、ギター、料理、他沢山です。最近は野菜作りに夢中です。分野としては、手先を使うものが多いです。他人が楽しそうにやっていることの「楽しさ」の一端を知ることが出来れば、それで満足です。

新しい電気製品や雑貨を目にしたり、美味しい料理に出会うと、(どうやって作るんだろう)と最初に思います。先だっても、妻の実家の前橋で、名物「焼き饅頭」を初体験した瞬間、これを自分でも作ってみたくなりました。小麦粉とイーストに、茨城の蕎麦粉を独自にブレンドして、数回試作しました。(これは「龍ヶ崎饅頭」と銘打って売れるぞ!もしうちでカフェを開いたら、目玉商品にしよう)と納得のいく出来を確認したとたん、急速に熱が冷めました。

私の器用貧乏の遺伝子は、明らかに母方の祖父から来ています。祖父は一介のサラリーマンでしたが、広大な庭で数百鉢のサツキを仕立て、畑を作り、果樹を育て、大きな小屋で世界中の珍しい鳥を飼っていました。定年後はさらに、アマチュア考古学者として埋蔵文化財の発掘をして同人誌を編集し、古文書研究、謡い、大工、高校の理科の非常勤講師などマルチにこなしていました。ある日、近くの池でフナを釣ろうという話になったとき、飼っていた銀鶏の尾羽根を細工して、ウキをこしらえたのにはびっくりしました。必要なものは自作から始まり、ダメなら廃品を修理し、どうしても上手く行かなかったら初めて「仕方ない買いに行くか」となる人でした。

器用貧乏には良いところも有ります。初対面の人と話すとき、話題を見つけやすい点です。そのものズバリの共通点が無くても、周辺知識を動員して十分くらいは会話ができます。それ以上続くとボロが出ますが。

「ある程度形になるまでが速い」と書きましたが、例外も有ります。ゴルフとステンドグラスです。ゴルフはプロにも教わりましたが、一年で諦めました。後者は、死ぬまで模索が続くでしょう。

ステンド作家になることを決意したころの初期の作品「ツタ」

ステンド作家になることを決意したころの初期の作品「ツタ」

ブログのランキングに参加しています。ぜひワン・クリックお願いします(励みになりますので)。
にほんブログ村 美術ブログ ガラス工芸へにほんブログ村

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その22)」 「倹約紀行(三)」

平成十九年春に行ったヨーロッパの紀行文は、今回が最終回です。

旅の後半は、学生時代からの友人フランソワ・ゲリー(当時留学生)の世話になりました。彼は私が渡仏する度に仕事が変っており、この時は自分が考案した教育用カードゲームを、小学校に売り込んでいました。自由人の彼は、私が渡仏する度に臨時休業とし、車で方々連れて行ってくれます。今回は彼の恋人で仏領マルチニーク島出身のマドモァゼル・カリーヌも一緒で、私の妻も含め4人旅となりました。ちなみに彼の恋人も、毎回違います。

パリ郊外の彼の自宅近くで落ち合い、夕方から高速道路を飛ばし、隣の国ベルギーの首都ブリュッセルへ。深夜にユースホステルに着き、男女別の大部屋に分かれて泊まりました。翌日から、ブリュッセル観光。グランプラスという中世ギルドのゴシック建築に囲まれた広場や小便小僧の像、サン・ミッシェル大聖堂を見て廻りました。昼食は名物ムール貝の蒸し焼きと、数種類のベルギービール。夏のような日差しの下、姦しくテラスで酒盛り状態でした。

サン・ミッシェル大聖堂の絵画的なステンド

サン・ミッシェル大聖堂の絵画的なステンド

ブリュッセルのテラスでムール貝

ブリュッセルのテラスでムール貝

その後アウトバーンを飛ばし、ドイツのアーヘンという町に移動しました。パン屋に直行し、本場のドイツパン数種を「ブロート・ビッテ!」と片言のドイツ語で購入。あーでもないこーでもないと大声で議論しながら、パン屋内のカフェコーナーで食べまくりました。家では毎朝手作りのライ麦パンを食べているので、本物を味わうこの機会を楽しみにしていました。ライ麦100パーセントのドイツっ子ですらあまり食べないという素朴なフォルコンブロートは、酸っぱくてぼそぼそしています。しかし、噛むほどに味が出てきて、ドイツ民族の味がしました。

アーヘンのパン屋で

アーヘンのパン屋で

夜は、ケルンの郊外フレッシェンという町をさまよい歩きました。土曜日深夜の田舎町で、開いている店を探すのは至難の業です。通行人に尋ねて、ようやく気持ちの良い店(BAR)にたどり着きました。眠ったように静かな町の中で、この店だけはお祭りのような賑わいです。ドイツの巨漢達は、地ビールをしたたかに飲んでいるようでした。好奇の目に曝されながら我々「外国人」も席に着き、お決まりの名物、ザワークラウト(醗酵キャベツ)とソーセージ、地ビールをやりました。ベルギーといいドイツといい、ビールにコクがあり本当に旨くて、また食べ物がビールに良く合います。血液からアルコールとホップが抜けない数日でした。

翌日、建築に600年を要したという世界遺産ケルン大聖堂を隅々まで見て廻り、パリに戻りました。パリではカリーヌのアパートメントに転がり込み、ここで数日厄介になりました。最終日には、我々がカツ丼を作って食べさせ、再会を誓って帰途に。彼らが来日したとき、B級グルメの旅を案内するのが楽しみです。

ブログのランキングに参加しています。ぜひワン・クリックお願いします(励みになりますので)。
にほんブログ村 美術ブログ ガラス工芸へにほんブログ村