ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その41)」「理系(その1)」

私は典型的な理系です。

理系人間には、ロジック=論理的思考が求められていますよね。もちろん、文系、体育会系、他色々な系を含めた人間全般に、論理的な思考は大切ですが、理系人間には立場上、一段厳格なそれが求められていると思います。
でもこの訓練が行き過ぎると、普通の人間社会で摩擦を生むって知っていましたか。

私が20代のころですから大分前のお話になりますが、私と、年上のご婦人二人とで、たわいもないお話をしている時、こんなことがありました。
私がご婦人Aに、「今日のお召し物は素敵ですね」と言ったら、横にいたご婦人Bが「アラ、どうせ私の服は野暮ったいですよ」とすねられたのです。
瞬間私は何が起きたのか解らず、きょとんです。
もちろん、今では私が犯した問題は良くわかります。でも当時は、Bさんの服が野暮ったいだなんて言っていないし思ってもいないのに、なんで?と困惑しました。

論理学上、当時の私は正しいし、Bさんの反応は間違いです。ですが、文系が主流を占めるこの日本ではそうではなく、
「Aは素敵」なる命題は、「素敵なのはAだけ、だからBはゼンゼン素敵でない」と同値。
「逆は必ずしも真ならず」ではなく、世間一般では「逆も真」なのです。

妻に「今日の味噌汁美味しいね」と褒めようものなら、「焼き魚と、煮物と、米はマズイってこと!」。
上司に「今日の会議は頑張ります」なんて言おうものなら、「昨日までずーっと手を抜いてたってか!」。
恐ろしや。

理系・文系が未分化の小学校の段階から、論理学をしっかり学ばせるべきですね。

論理学上、万華鏡は同じ柄の繰り返しのはずですが...

ステンドグラス「万華鏡」
論理学上、万華鏡は同じ柄の繰り返しのはずですが...

 

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その40)」「不恥下問」

論語に「不恥下問(かもんを恥じず)」という一節があります。その意味するところは、目下の人や立場が下の人に問うこと(教えてもらうこと)を、恥と思ってはいけない。せっせと教えを乞いなさい。でなければ、成長は止まりますよ。というところでしょうか。

私は50歳を超えて、付き合う人に年下の人が増えてきたせいか、どうしても人に問いかけて教えてもらうことが少なくなってきたように思います。若い先方からは「先輩、教えてあげますよ」ともなかなか言えないでしょうし。どうも、素直に問えない頑固さが芽生えてきたと言った方が、正確かもしれません。

30歳くらいまでは、自分の無知をさほど恥とも思わず、誰彼無く聞けたものです。知恵知識、学問上のことも、人生上の悩みも、先輩に良く尋ねました。また、尋ねる前に向こうから親切にも教えてくれることも、叱ってくれることもありました。ありがたいことです。40歳くらいから、徐々に体裁が先に立ち、尋ねる相手も選ぶようになり、今では人前で「知りませんでした」と言えない自分があります。

興味のないことだと割合あっけらかんと「いや、不勉強で、存じませんでした」と言えることもありますが、自分の専門のこととなるとどうもいけません。人に指摘されると、まずムカッと来てから、少し時間を置いてようやく内容を吟味します。そうか、そうだったのか、私が間違っていたか、と気が付くのはもっと後になってからです。気が付かず、バツの悪さだけが残るときもあります。妻ですら、年上の私には問題点を指摘し難いと言います。よほど目に余るようですと、私の機嫌の良さそうなときに、気を遣って恐る恐る注意してくれますが。

世の中には、歳を取るほどに謙虚になる立派な方もおられるというのに、私はいけません。
まだ守るべきナニモノをも得ていないというのに...「不恥下問」を肝に銘じます。

フュージング画「桜の常磐線」

フュージング画「桜の常磐線」
不恥下問となんも関係ありません。

 

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その39)」「パトロン」

芸術の発展には、パトロンの存在が不可欠だと思います。
パトロンとは「支援者」や「援助者」のことで、継続的に作品を買ってくれるお客様や、制作活動をする環境を提供してくれる人、組織と言った感じです。日本でいうと、江戸時代までは貴族や殿様、豪商、大寺院がそれを担い、明治以降は実業家や資産家、好事家、戦後は大企業や美術館、外資の富豪などがそれに当たるでしょうか。

安土桃山から江戸期はパトロンの力が絶大で、また芸術に対する理解もあり、材料も贅を尽くし、時間・工数もたっぷり注ぎ込んだ逸品が大量に生み出されました。当時はデザインや技法の進化も早く、日本各地に伝統工芸が生まれ、今日に残る木工や漆芸、蒔絵、金工、武具、陶芸、織物、和紙などほぼこのころ確立したと思います。また、日本画、墨画、版画、書など我が世の春を謳歌し、仏像、木造建築は呆れるほどの超大作が生み出されました。その中には、現在再現不可能なものも多く、芸術・工芸家にとってまさに夢のような時代だったと思います。

今日、古き良き時代に比べて、パトロンはめっきり減り、芸術家にとって、長い冬の時代です。特に日本でパトロンが減った理由を、私は二つ考えます。第一に、戦後、国民総中流化が進み、低所得者が減った代わりに富豪の数も減ったためだと思います。第二に、美術教育の不備で、美術が苦手だというトラウマを持った人、つまり美術アレルギーの人を多く生み出したことによると思います(ぎやまん草子、その34で触れています)。第一の理由からは、一流芸術家を育てる土壌を失わせ、第二の理由からは、一般市民が美術品を気軽に買い求める道を閉ざしてしまったと思います。

今日、美大を出た人でも、己が制作物を世に問うて生きていける人は極極わずかで、恐らく1%もいないのではないでしょうか。陶芸やアクセサリーなどの金工、写真のような実用美術なら、芸術性というより職人技を活かしての活路はあるかと思います。ですが、絵画や彫刻のような純粋美術では、「さて大学は出たものの」と途方に暮れての世間への船出だと思います。勢い、就職先を学校の美術教員や、カルチャースクールの先生に求めることになると思いますが、それとて狭き門で、職に就ければ勝ち組に入ると思います。

ちょっと羽振りのいい芸術家がいたと思うと、実家が大金持ちだったりします。例えばクラシック音楽家を志すのであれば、医者を目指すのと同様「家が裕福」は、必須でしょう。

芸術家が、創作活動だけで食べていける世にならないと、芸術は衰退すると思います。もちろん、過去の歴史において、非常に貧乏を強いられて、それでも死後名を成した作家がいることは確かです。ゴッホやエコール・ド・パリを私は真っ先に思い浮かべます。しかし、それはやはり少数派だと思います。

芸術がある様式を確立するまで進化し、その時代の文化とまで呼ばれるようになるには、芸術家に「生活」の心配をさせるべきではないと思います。天才的芸術家には、専門馬鹿と言ってもよいくらい、世渡りや商才に欠ける者が多いからです。

現在、芸術文化といわれるものがファッション、商業デザインやサブカルチャーなど「即→金」なるもの、「消費されるもの」に偏っている点を私は危惧しています。政治的に芸術家を保護する政策は、私は得策ではないと思っています。朝令暮改では芸術家は育たないでしょうから。それより小中学校での美術教育を見直し、実技に偏る教育ではなく、鑑賞者としての目を養う、つまり将来芸術品を喜んで買う側を養成する教育を期待します。

また美大での履修科目に美術経営を加えるべきです。具体的には、仕入れ、販売、受注や宣伝の仕方、公募展対策、画廊との付き合い方などを教えるのです。また、日展や院展などの美術団体とは別に、労働者としての芸術家の安定と地位向上を目的とした、組合を作るべきでしょう。

そういう意味では、芸術家自らにも、パトロンを見つけ出し、パトロンを育てる気概が必要になってくると思います。

パトロンのステンドグラス

私には、実は独立当時からパトロンがおります。お一人ではなく、団体さんですが。写真は、そのお一方のご自宅です。ステンドグラス「スイング・メン」が入っています。

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ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その38)」「親切」

ヨーロッパ人は、親切心を行動に移すのが、日本人に比べてスマートだと思います。まあこれは、私とその周辺だけの意見かもしれませんが。私はフランスを中心にヨーロッパには数回行き、妻もフランスに4年間ほど留学し、周辺各国にも滞在経験があるので、互いに話すことです。

例えば、路上やマーケット、地下鉄などで、困っている人に対し周囲の人が実に素早く手を貸します。印象に残っているのは、10年ほど前、パリの地下鉄。座席に座っていた高校生くらいの数名の少年達です。やにわに立ち上がり扉に殺到したかと思うと、重そうなカートを持って乗車しようとしてきた黒人の女性に対し、ある少年は扉を抑え、ある少年はカートを持ち上げて助けていた光景です。女性が無事乗り込むと、何事もなかったかのように少年たちはまた話し出しました。学校や家庭でそのように躾けられているのかもしれませんが、実に気持ちの良い光景でした。

これが東京の地下鉄ならどうでしょう。
「今乗ろうとしているあの人、重そうな荷物を持ってるなあ
「でも何歳くらいだろう、お年寄りじゃないし、
「声かけたら、変に思われるだろうなあ
「あっ、カートの車輪が引っかかりそうだ、頑張れ
「良かった、間に合った、乗れた」
これは、押し黙ったまま微動だにしない日本人Aの心の中です。行動に移せないなら、いっそ無くてもいいか、こんな「思い」。

スペインに仕事でよく出かける友人Mも、スペイン人は本当に人懐っこくて親切だと言います。
地図を持って道に立っていると、必ず誰かが言い寄って、探していた目的地まで案内してくれるそうです。日本では、そのような人あまり目にしません。外国人が道を探していたら、話しかけられないように、かえって距離を置くくらいです。

また友人Mは、こうも言います。初対面でも、少し馴染むと、上げ膳据え膳でもてなしてくれて、肩に手をまわして今日はウチに泊まっていけと言ってくれる。南ヨーロッパ人は特に陽性だというのもあるでしょうが、親切や思いやりが道徳ではなく、習慣になっているところが素晴らしいです。

オリンピックの東京招致の時流行った日本人の「おもてなし」の精神は、接客のプロに限られたものではないでしょうか。日本のホテルや旅館業、鉄道員、量販店の店員など、確かに心配りがきめ細やかです。完璧主義といってもいいほどです。ですが、一般ピープルに関しては、さっき言ったように日本人よりヨーロッパ人の方が一枚上手でしょう。

そんなヨーロッパでも、逆に頂けないのが、公共機関の窓口。どんなに行列ができていても、のんびりマイペース。業務終了の時が来れば、冷たく閉める。ファストフードの店員も、あまりイイ感じではありませんでした。こちらがアジア人だからでしょうか。

おまけで、バックライト付き木製スタンドがついてきます。なんて、親切なんでしょう。

おまけで、バックライト付き木製スタンドがついてきます。なんて、親切なんでしょう。

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ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その37)」「プライド」

カタカナ言葉には便利なものが多いですが、「プライド」というのもなかなか使い勝手がいいですね。他人から「こうした方がいいんじゃない」と言われたとき、それを断る時に便利な言葉です。「私のプライドが許しませんので、それはできません」てな感じです。

いやそんなことは無い、プライドの日本語訳は「誇り」だから、断るなどと言うネガティブな用途には滅多に用いないはずだ。との反論もあるでしょう。確かに私が昔、メーカーに勤めていた時「日本のメーカーのプライドにかけて、品質は妥協しない」との気概はありました。この場合、【プライド】=「誇り」が妥当な和訳だと思います。

しかし、私の人間観察の中で耳にするプライドは、およそ「誇り」とはかけ離れたものが多いように思います。実例を挙げながら、適当な和訳を添えてみたいと思います。

・「俺は今まで女房に頭を下げたことはない。強いて言えば男のプライドかな」
【プライド】=素直に謝れない弱さ、繕われた体裁(テイサイ)のこと

・「老後は、プライドにかけて子供の世話にはならない」
【プライド】=最後には破綻する見栄、虚栄心のこと

・「手作業で30年やってきたプライドがあるんだ、今更自動機なんて使えるかよ」
【プライド】=硬直した思考回路のこと

・「学歴を誇る彼は、プライドが高く、決して同僚には教えを乞わない」
【プライド】=何の益も生み出さないエリート意識、選民意識のこと

・「俺には職人のプライドがある、素人の指図は受けねえよ」
【プライド】=他を寄せ付けない頑固な性格のこと

・「部下の前で叱責するなんて、課長としてのプライドが傷つけられた」
【プライド】=取るに足らない立場、外面のこと

・「地域に貢献して30年。これが私ども△△社のプライドです」
【プライド】=思い込み、独りよがりのこと

・「関東人はプライドがあるから、買物では値切らない」
【プライド】=恥ずかしがり屋の性格のこと

・「元々はもっと大きな造り酒屋で、今でもそのプライドだけは捨てません」
【プライド】=古き良き思い出、または先人の呪縛のこと

・「あいつ、変わり身も早いし他人に取り入るのが上手いな、プライドが無さすぎだよ」
【プライドが無い】=屈託が無く、羨ましい性格のこと

どうです、プライドって便利な言葉ですよね。カタカナ言葉特有の曖昧さ無責任さがあって、
「本音は言えないけど、なんとか良しなに私の心をくみ取ってくださいな」みたいな甘えを、硬派でポジティブな雰囲気にすり替えることが出来ます。今一歩成長できない己を正当化したいとき、是非使ってみてください。

ステンドグラス「狭量な猫」

ステンドグラス「狭量な猫」
「プライド」なる言葉を狭量な自分の隠れ蓑に使いたくないですね

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ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その36)」「夢」

日本人宇宙飛行士が...オリンピックで金メダルを取ったアスリートが...海外で活躍するサッカー選手が...「諦めないでください。続けていれば夢は絶対に叶います。」と世の子供たちに贈るメッセージ。美しいですね。有難いですね。励みになりますね。流石、トップに登り詰めた方が仰るだけに、説得力ありますね。

ッて、本当に?私は全く納得がいきません。いや逆に、無責任な言葉に聞こえてならない。のは、私がへそ曲がりだからでしょうか。だって、あなたに負けて涙をのんだアマタの人々だって、別段諦めてないし、下手すりゃあなたより努力していたかもしれない。そんな、何百、何千という人々に失礼と言うか、なんというか。

宇宙飛行士も金メダリストも、数年に1人だけが成れる言ってみれば定員制ですよ。努力していても手に入らない人が大多数ですから。子供には正確にその現実を教えてあげましょうよ。

高校の数学の時間に習った「必要十分条件」と言う言葉を覚えていますでしょうか。論理学の基本です。「諦めないで努力し続ける」と言うことは、言ってみればトップになる為の「必要条件」ですよね。必要不可欠な事という意味です。でも「十分条件」ではありません。「諦めない」だけでは不十分なことは、少し落ち着いて考えれば、明らかです。トップになるための十分条件をあえて挙げるとすれば、①諦めずに努力し続けること以外に、②ずば抜けた才能、③メンタリティー、④人脈、⑤資金力、⑥運とか...もうたく出てきます。最初に紹介したメッセージ「諦めないでください。続けていれば夢は絶対に叶います。」が、十分条件の文体なので、私は気になっていたんです。

子供に限らず人が夢を持つことは大切なことだと思います。夢を持って生きている人はきっと幸せです。ですがここで言う夢とは(目標と言ってもいいですが)、将来のお仕事のことと限定しておきます。その道のプロになることです。趣味の範疇のお話は除外しておきますね。

小中学生の時は、その夢にまっしぐらでも良いと思います。ですが、高校生になったら、少し落ち着いて、実現性を考える必要があると私は思います。そして、いつか①夢の拡大解釈をしなければならない時、②諦めなければならない時、が来るかもしれないと、覚悟しておく必要があると思います。これは、夢を追い続けたがために人生が破綻してしまった、などということにならないためです。特に前者の「夢の拡大解釈」は、敗北感も少なく、またそれまでの経験を活かせる点でお勧めです。

実例を挙げるならば、プロサッカー選手を夢見て頑張ってきても、25歳ぐらいでプロに成れていなかったらどうします。その時、自分の夢を「サッカーに関係する仕事に就く」と言う風に拡大解釈して、サッカー用具の職人に転職するとかです。あるいは、画家を目指して美大を出たが、25歳時点で絵がさっぱり売れなかったらどうします。目先を変えてステンドグラス作家と言う、比較的競争相手やしがらみの少ない分野にシフトするという手もあります。ちなみにこれ私の経験に近いです。

夢を変更する時、なるべく競争の少ない、定員などの人数制限が無いものを選ぶことも、コツの一つだと思います。夢は、硬く小さくしないで、柔らかく大きく、が良いのではというお話しでした。

フュージング画「高台の料理店」

フュージング画「高台の料理店」
私の小学生の時の夢は、コックになる事でした。その後、夢はどんどん変化して、今日に至っています。ですが、未だに料理屋をやる夢は無くしていません。

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ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その35)」「値段」

予想外の値段の高さに驚かされる、っていうことありませんか。土地やダイヤモンドのように誰もが認める高価なもののことではなく、見た目はもっとあっさりしていて、似たようなものが安価に手に入るもののことです。

例えば、テレビで紹介される銀座の老舗寿司店で、トロの握り1貫2,000円したりする場合です。思わずその値段の根拠を知りたくなりますよね。だって、回転寿司では2貫で100円なんですから。

多くの場合、大将はその原料となるマグロ本体や、部位の希少性を説明して、レポーターも一応納得します。でも、私は納得がいきません。大将は、本当にその原材料の高さを言いたかったのでしょうか。レポーターがもっと突っ込んで質問したり、あるいは裏付け調査をしたら、原材料は想像以上に安い気がします。大将は、「俺の腕の値段、つまり技術料だよ」と言いたかったのではないでしょうか。

日本人が納得しやすい値段の根拠はなんでしょう。
まず1番目は、原材料に因るものでしょう。高い材料でできたものに高い金を払う。至極当然です。
2番目が、制作にかかった時間でしょうか。時間がかかったもの=労働が費やされたものは高い。これも納得がいきます。
3番目が、権威付けされたもの。例えば、弁護士の相談料は高い、とか、賞を取った人の作品は高い、といった類です。
最後の4番目が、「才能」に金を払う。これがなかなか納得されない部類ではないでしょうか。権威付はされてはいないが卓越した才能・技術の要るものです。例えば、在野の書家の書く「書」なんてどうでしょう。原材料はせいぜい数百円、作業時間も1時間とかでしょう。これが10万円と言われたら、どう思いますか。「えっ、時間給2,500円として…3,000円くらいで譲ってくださいよ」と内心では思うのではないでしょうか。まあしかし、この書家さんが「ここまで来るのに20年間修業しましたので、自己投資の回収分が入っています」
とか説明してくれれば、あるいは納得がいくかも知れません。でも、これでは上記2番目の「時間にお金を払う」の亜種になってしまいます。

世の中には、修業時間もたいしてかけずに、素晴らしいものを生み出す天才もいます。我々、こういう人には、なかなかお金を出せませんね。
その理由を、私なりに考えてみました。
まず第1に、日本人は自分の目や舌で価値を判断できる審美眼を持っていないから、ではないでしょうか。「有名な評論家がイイと言っているから、イイに決まっている」「制作に時間がかかっているのか、彼も生活がかかっているし払ってやるか」と言う根拠で、お金を払っていませんか。
第2に、人は皆、同じ能力を平等に持っている、と思っているから。
企業に属した研究者が、ノーベル賞級の素晴らしい発明をしても、ちょっとボーナスが上がるくらいで、才能に対する対価が支払われない。なんて話も聞きます。こういう企業のお偉いさんは、同じ実験装置と同じ時間を与えれば、誰でも同じ発明が出来ると思ているのでしょう。大多数の日本人は、個個で異なる潜在的才能があることを認めたがらず、それを評価する習慣が無いのだと思います。

ステンドグラス「ストレリチア」 2012年制作

ステンドグラス「ストレリチア」
2012年制作
ステンドグラスの高価の根拠を聞かれると、ついつい「ドイツとフランス製のアンティークガラスを使用していますので」と言ってしまいます。でも、正直材料代は全体の2割程度なんですけどね。
小心者なので「ほとんどが私の技術料です」とは言えません。

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その34)」「図工」

小学校で図画工作と言われる教育科目、皆様はどう思われますか。時間数も教員数も削減され続け、教育内容もどこかお座なりのような気がしてなりません。ちなみに、図工の授業時間は、1年生では昭和40年代の年間105時間に対し現在は68時間です。6年生では70時間に対し50時間です(文科省)。

特に図画=絵を描くことについては、先生は生徒達の「上手に絵を描けるようになりたい」という願望に応えていますでしょうか。「上手かどうかは重要ではない、独創的であるか、楽しんでいるかが重要なのです」との反論が聞こえてきそうです。ですが、これは教師が、上手に描けるようにしてあげられないことの言い訳に聞こえてなりません。

正確に描けることは、図工の基本中の基本であると思います。対象物のプロポーションを目測し、色・明暗を分析し、紙の上に再現する作業です。生徒が上手く描けずに、半ば出鱈目に描き殴ったものを「独創的でイイねえ」と褒めたところで、子供の為になりますでしょうか。これを同じ実技教科である音楽に当てはめるならば、「ドレミの音程はどうでもいいから、思い通りに楽器をかき鳴らしなさい」、体育なら「ボールを正確に投げたり捕ったり出来なくていいから、まあ元気にぶん投げなさい」と言っていることと等しいと思います。音楽教育も体育教育も、現実はもっと基本を重視していますよね。

私は、小学生(特に低学年)には芸術性など、ほぼ必要無いと思っています。子供は生まれて1年も経つと絵を描き始めます。親は、子をあやすことに疲れると、決まって紙とクレヨンを与えますね。子供にとって絵を描くことは、芸術活動ではなく遊びであり、獲得願望の代償行為ではないかと思っています。彼らが描くお姫様やお人形、動物や虫も、電車や飛行機、勇ましい怪獣やヒーローも、実物は手に入らないから(入ってもおもちゃだから)、あるいは自分がそのものになれないから、画用紙に自由に再現したいのでしょう。彼らにとって、上手に、正確に描けるということは、欲求を満たすための何よりも大切なことなのです。

教師は、まずこの願望に応えてあげないと、芸術的才能の開花と言う段階に入る前に、彼らは絵を辞めてしまいます。上手に正確に描けるというのは、テクニックであり訓練の成果ですから、教える側にも相応のスキルと根気が必要です。今の教師にそのスキルが不足しているとは思いません。彼らは、石膏デッサンをこなして、高等教育の美術課程を経てきているのですから。問題は、国の教育方針にあると思います。

わが子の図工の教科書を見ると、絵具や色鉛筆、クレヨンはもとより、切り絵や版画、粘土、塗ったり、切ったり、貼ったり、とにかく多数の技法を試させてばかりです。ですがどの技法も、時間切れで掘り下げ切れないだろうなあと思います。結局子供達にとって、6年間の小学校生活の中で、上手に描けるようになれなかったというコンプレックスが醸成され、中学・高校での美術教科の不人気、美術離れに繋がるのだと思います。

フュージング画「柿とオナガ」 私は小学生低学年のころまで、鳥ばかり描いていました

フュージング画「柿とオナガ」
私は小学生低学年のころまで、鳥ばかり描いていました

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その33)」「死」

私はステンドグラスを作るクリエイターであり、信仰者の顔も持っています(神社神道ですが)。信仰の目的は、死に対する不安や恐れを無くすこと。私が信仰している理由のひとつはこれです。

「その歳で、もう自分の死の話ですか。早くはないですか?」と問われるでしょう。人とはこの質問者のように、自分の死について考えることを避けるものですね。「死」という言葉は巷にあふれています。ニュースの多くが、他人の不幸な死を伝えます。そして、やがて自分に死が訪れることも覚悟しています。ですが、今、自分の死を具体的に思い描くことは最大のタブーです。

人の営みの多くが、この「己が死」から目を背けることから発している、と私は考えます。 酒を呑み享楽に耽るのはもとより、人はなぜ、際限なくお金を欲するのか。それは、「枯渇」の先にあるものは「餓死」であると本能が教えるからではないでしょうか。同様に人はなぜ健康を希求するのか。孤独を嫌うのか。その先に、病死、孤独死、つまり「己が死」が待っていると、無意識のうちに連想するからではないでしょうか。他人を蹴落してでも優位に立ちたいと駆り立てるもの、競争社会、いじめ、戦争、元をただせば人が潜在的に持つ「己が死への恐怖」から発していると思います。そして、その日が来るのを、できるだけ先延ばしにしたい。

私達は、己が死のどの部分を恐れているのか。死の前の苦しみか。介護を受ける身の心痛。お金の心配か。醜態を曝し、プライドが傷つくことか。愛する人達との離別、残された家族への心配、やり残したことへの未練、等々。そして、未知なる死後の世界に対する不安と恐怖心。これをたった独りで受け入れ乗り越えなければならないという事実。これら全てが恐怖だと思います。

私は小学生のころから、自分は短命ではないだろうか、と漠然と思い込む一種の癖がありました。西暦2001年を生きて迎えられるだろうか、と不安に感じていたことを覚えています。幸い36歳の時、ミレニアムと言われたこの一大イベントを、この目で見ることができましたが。また、小学校6年の時、沖縄の南部戦跡を訪れた時に受けたショックも大きく、戦争や罪のない人々に降りかかる不条理な死に対する、憎しみにも似た嫌悪感を持つようになりました。

しかし恐怖心を克服するには、目を背けず、対峙するしかありません。信仰は、ずっと避けてきた「己が死」をじっくり考えさせてくれる時間だと思います。祈りを通して、神との出会いを体感し、死後もこの関係は変わらないという実感を持つことこそが信仰で得る智慧ではないでしょうか。ああ、死んでも一人ぼっちではないんだ、という実感。諸行無常を悟り、貪ることを止め、心の平穏を得る。そうすれば、卒業式の前日まで伸び伸びと学び遊ぶ子供のように、生そのものも瑞々しく充実する。これは、信仰の専売特許、独壇場ではないでしょうか。これが得られれば、その時、億万長者よりずっと豊かだと思います。 私は信仰にこれを期待します。

フュージング画「みちしるべ」

フュージング画「みちしるべ」
死者の御霊を彼岸に導くみちしるべを、曼珠沙華の列で表現しました

ステンドグラス制作者の「ぎやまん草子(その32)」「不戦」

私は臆病者です。喧嘩も、痛いのも大嫌いです。ですから、もし戦争が起きても、私は兵隊に行きません。卑怯者と言われようとも。
世に「戦争反対」を唱える人は多いですが、「いざとなったら従軍し、戦う覚悟もあります」と付け加える人も結構多いのです、特に若者世代を中心に。報道番組のインタビューを見ていて感じました。それが愛国心なら敬意を表しますが、一抹の不安も感じます。世界中で今なお繰り返される戦争、紛争、聖戦、内戦、テロと言われるものは、「いざとなれば私は戦う」というこのシンプルで勇敢な決意を、為政者達に利用されて起きていると愚考するからです。
貴方は私にこう問うかもしれません。「他国が土足で踏み込んできても黙っているのか。目の前で君の愛する家族が殺されても、黙って見ているのか。」
卑怯な私は、この質問をも拒否します。このような究極の状態を想定してまで、平時から闘争心を醸成させる必要など無いと思うからです。人間としての最大限のエネルギーと英知を結集すれば、このような事態になるはずがないと。よしんばそうなっても、「戦う」というオプションは考えません。
臆病者の私は、喧嘩をせずに事を収めることを何時も考えています。そして「戦争の無い世界にするにはどうすればよいか」ということも。戦争は天災ではありません。必ず「人」が起こすことです。であるが故に、「戦争をする人がいなければ、戦争は絶対に起きない」と思うのです。さらに愚策として、例えば防衛予算をそっくり「世界平和研究所」設立予算に回して、日本をして世界をリードする平和探究国家たらしめるというのは如何でしょう。日本が、世界中からもっと尊ばれ愛される国になる研究をするのです。日本にはその素地があると思います。私が好きな次の文章に、それが窺えます。日本国憲法の「前文」と言われるものです。
『(前略)日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。』
ともすると、米国から押し付けられた憲法だと揶揄される日本国憲法ですが、この文章からは戦争の悲劇にうんざりした日本と世界の人々の、不戦への強い願いを感じます。
現在世界には、アイスランドを含め25ヶ国ほど、軍隊を保有しない国があるそうです。ちなみに自衛隊は軍隊とみなされているので、日本はこの中に含まれません。 25ヶ国それぞれに、不安や苦労、自己矛盾などはあると思いますが、その国民の決意に学びたいです。

フュージング画「訶梨帝母」 鬼子母神とも言います。人の子を殺め喰うという悪習を止めて、神になる道を選びました。

フュージング画「訶梨帝母」
鬼子母神とも言います。人の子を殺め喰うという悪習を止めて、神になる道を選びました。